元レッドブル・ジュニアのその時&その後 (2)

 

元レッドブル・ジュニアのその後を紹介するシリーズ。前回の続きです。

 

 

Mikhail Aleshin (Russia 2005-2009)

04年のFルノー (FR) 2.0イタリアでチャンピオンを獲得し、翌年レッドブル・ジュニアに加入。06年からはFR3.5にステップアップし、07年の開幕戦ではロシア人ドライバー初の、F1直下カテゴリーでの優勝を記録します。これはヴィタリー・ペトロフがGP2で勝つより早く、当時はペトロフよりアレシンの方がロシア初のF1ドライバー候補として期待されていました。しかし3年間で優勝はその1度のみで、ランキングも08年の5位が最高と期待を下回る結果に終わります。

09年は新たに創設されたFIA F2(現在のFIA F2とは違いジョナサン・パーマーが主宰するMSV (Motor Sports Vision) 運営のシリーズ。便宜上”MSV F2”)に参戦しランキング3位となるも、レッドブルへのアピールとはならず。新たにロシアから現れた新星、ダニール・クビアトと入れ替わる形で、ジュニアチームを離れることになります。

しかし10年にFR3.5に復帰すると、皮肉にも新たにジュニアチームに加わっていたダニエル・リカルドとタイトル争いを展開。これを制し見事チャンピオンに輝きます。これもまたロシア人ドライバー初のF1直下カテゴリーでのタイトル獲得でした。

ただその後は資金難に苦しみ、GP2にはスポットで数戦に参加した程度。ドイツF3でロシアのコンストラクター、ArtLine Engineeringの開発を担ったり、FR3.5へ”再復帰”したりなど、不遇の時を過ごします。

ようやく14年にロシアのSMPから大口のサポートを得ると、米国へと活動の場を移し、シュミット・ピーターソンからインディカーに参戦。ヒューストンのレース2では当時チームメイトだったシモン・パジェノーに次ぐ2位表彰台を獲得し、チームに初の1-2フィニッシュをもたらしました。このまま米国での未来が開けるかと思われましたが、最終戦フォンタナのプラクティス中に大クラッシュを喫し、鎖骨や肋骨を折る重傷を負ってしまいます。(Mikhail Aleshin injured in five-car wreck in final IndyCar practice at Fontana (ESPN)

また当時クリミア紛争を巡ってロシアと米国の関係が悪化し、ロシアの資産凍結の影響でチームへの入金ができず、なんとも不運な形で翌年のシートを失ってしまいました。

それでも16年に制裁が解除されると再びインディカーへ復帰。”トライ・オーバル”のポコノでは初のPPを獲得し、あわや初優勝かという活躍で二度目の2位表彰台を射止めます。昨年も引き続きインディカーに参戦していましたが、シーズン後半に再び資金面の問題が浮上しチームを離脱。時に速さを見せながらも、不完全燃焼のまま米国での活動は終焉を迎えました。

その後は欧州に戻り、SMP Racingのル・マン・プロジェクトに参画。オリジナルLMP1マシン”BR1”の開発作業に従事し、同チームからWEC 18/19スーパーシーズンにペトロフとのロシア人コンビで参戦予定でしたが、先日さらに元F1王者ジェンソン・バトン(!)の加入も発表され、大きな注目を浴びることになりそうです。また同じくSMP RacingのドライバーとしてブランパンGTではフェラーリ488 GT3もドライブしています。

 

 

Robert Wickens (Canada 2006-2009)

Robert Wickens

Photo:Peoples.ru

地元カナダのカートシリーズで数々のタイトルを獲得し、BMWのスカラシップを得て、05年Formula BMW USAでシングルシーターにデビュー。翌年にはチャンピオンに輝き、レッドブル・ジュニアにもスカウトされます。07年はレッドブル/フォーサイスからChamp Car Atlanticにステップアップし、ランキング3位に(4位は今年インディカーでチームメイトとなったジェームス・ヒンチクリフ)。08年に分裂していたIRLとチャンプカーが合併し、現在のインディカーが復活したわけですが、もしフォーサイスがそのままインディカーに移行していれば、そのままインディにステップアップしていただろうと、ウィケンスは語っています。(Robert Wickens takes the long road to Verizon IndyCar Series | Autoweek

08年から活動の場を欧州に移すと、FR3.5やユーロF3に参戦。09年には新生FIA (MSV) F2でランキング2位となります。しかしSTRにセバスチャン・ブエミ&ハイミ・アルグエルスアリが昇格したことや、後輩のリカルド&ジャン・エリック・ベルニュの台頭などが重なったためか、この年限りでレッドブルのサポートを打ち切られました。

それでも10年は新設されたGP3で再びランキング2位に(チャンピオンはエステバン・グティエレス)。11年にはアレシンの後任としてFR3.5に復帰し、チームメイトとなったベルニュと他を全く寄せ付けない別次元のタイトル争いを展開。これを制しチャンピオンに輝きます(大差の3位はアレクサンダー・ロッシ)。奇しくもFR3.5では2年続けて元レッドブル・ジュニアvs現レッドブル・ジュニア(当時)によるタイトル争いとなったわけですが、参戦年数の違いはあるにせよ、アレシン&ウィケンスとも、元レッドブル・ジュニアの先輩としての意地のようなものを感じさせましたね。

F1に関しては11年シーズン途中にマルシャ・ヴァージンのリザーブドライバーを務めたのみで、残念ながらレギュラーシート獲得には至らず。この年限りで、一旦フォーミュラを離れることになります。

それでもFIA F2 2位、GP3 2位、FR3.5チャンピオンの活躍がメーカーの目に止まらぬハズはなく、12年メルセデスにスカウトされ、ミハエル・シューマッハーらを生んだあの”伝説”のメルセデス・ジュニアチーム以来の復活となった新ジュニアチームに、ロベルト・メルヒ、クリスチャン・ヴィエトリスと共に抜擢されます。90年のジュニアチームを模したイメージビジュアルも当時話題となりましたね。↓

Mercedes Junior Team 2012

Merhi, Vietoris, Wickens (2012) Photo:PitPass

Mercedes Junior Team 1990

Fritz Kreutzpointner, Karl Wendringer, Michael Schumacher (1990) Photo:Joe Saward Blog

同時にDTMにも参戦を始めると、2年目以降は毎年優勝を記録するなど、6年間で通算6勝&PP5回を獲得。13年はランキング5位、16年には同4位と、メルセデス陣営内でもエース級の活躍を演じ、トップドライバーとしての地位を確立しました。

今シーズンは18年限りでのDTM撤退を決めたメルセデスを離れ、再び米国へ。インディカーで11年以来のフォーミュラ復帰を果たすと、デビュー戦でいきなりPPを獲得しただけでなく、レースでも大半をリードし、あわや初出場初優勝かという衝撃的なデビューを飾ったのは記憶に新しいところです。今後の活躍も間違いなく、ブエミやジャニと並んでレッドブルを離れた後、最も成功したドライバーの一人でしょう。

 

 

Brendon Hartley (New Zealand 2006-2010)

今シーズン、F1レギュラーの座を掴みましたが、ジュニアチームからストレートに昇格したわけではないので、ここで取り上げたいと思います。

地元ニュージーランドでの活動の後、2006年に渡欧しFR2.0 Eurocup&NECに参戦。初年度は目立った成績はなかったものの、レッドブルのサポートを得た翌年にはEurocupでタイトルを獲得。さらにF3デビュー戦となったマスターズF3では、いきなり4位に入賞する速さを見せます。

08年には英国F3にステップアップし、シーズン最多の5勝を挙げランキング3位に。この時のチャンピオンは同じくレッドブル・ジュニアのメンバーだったアルグエルスアリ、2位はオリバー・ターベイ(現Formula E NIO)、そして4位セルジオ・ペレス、5位マーカス・エリクソンという顔触れでした。また英国と並行してユーロF3にもゲスト参加したほか、この年のマカオでは予選レースでクラッシュを喫し20番スタートながら、決勝では3位表彰台+FLを獲得する非凡なレースを見せました(優勝は国本京祐、2位はエドアルド・モルターラ)。またこの年、初のF1テストドライブも経験するなど、F1昇格に向けて順調にキャリアを歩んでいました。

09年はユーロF3とFR3.5にダブル参戦する一方、レッドブル/STRの公式テスト&リザーブ・ドライバーに指名されます。しかしシーズン途中でF3とFR3.5に集中するため、アルグエルスアリと交代することに。この後セバスチャン・ブルデーがSTRを解雇されて、急遽アルグエルスアリがリザーブからレギュラーに昇格することになったわけで、今から思えば誤った選択でした。

しかも肝心のユーロF3でも1勝止まりでランキング11位に低迷。FR3.5でも未勝利と不本意な結果に終わります。翌年は再びレッドブル/STRのテスト&リザーブドライバーをリカルドとシェアする一方、引き続きFR3.5に参戦。リカルドとはチームメイトになりますが、成績不振によりシーズン途中でレッドブル・ジュニアから切られた上、F1リザーブだけでなくFR3.5のシートも失ってしまいます。

その後、11年に再びFR3.5に復帰しランキング7位。GP2にも10〜12年にかけて何度かスポット参戦しましたが、フル契約には至らず。結局F1直下の2カテゴリーでは未勝利に終わりました。12〜13年にはメルセデスF1のシミュレータードライバーも務めましたが、12年にはとうとうシートのないままレースシーズン開幕を迎えるというドン底状態にまで陥ります。

ただ捨てる神あれば拾う神あり。シーズン途中に当時ELMSに参戦していたMurphy Prototypesからオファーを受け、耐久レース&ル・マンにデビューすると、翌年にはELMSと米国のRolex Sports Car Series(後にALMSと合併して現IMSA WeatherTech SportsCar Championshipに)にフル参戦。MurphyはLMP2の中でも中位以下のチームでしたが、そんな環境下でチームをELMS年間5位、ル・マンでもクラス6位に導きます。その速さは徐々に周囲の耳目を集めるようになり、14年からのLMP1復帰を発表していたポルシェから声がかかりテストに参加。ワークスシートの座をゲットしました。

その後の活躍は皆さんご存知の通りで、15年&17年のWECシリーズチャンピオン、17年ル・マン優勝と耐久レース界のトップドライバーに成長。レッドブル・ジュニア時代から親交のあったマーク・ウェバーとチームメイトになったことも、自身にとって大きなプラスになったでしょう。

そして昨秋、STRに空きができそうになると自らヘルムート・マルコへ売り込み、F1デビューのチャンスを掴みました。当然ながらレッドブルを一旦クビになったドライバーが、紆余曲折を経てSTRに”復帰”した初めてのケースであり、他の新旧レッドブル・ジュニアドライバーにも励みになる結果になったでしょう。

 

 

Mirko Bortolotti (Italia 2009)

イタリア国内のエントリーフォーミュラを経て、07年イタリアF3にステップアップ。2年目には9勝を挙げてタイトルを獲得し、オフシーズンにはその褒賞としてフェラーリF2008のテストドライブの機会を得ます。しかもその際、当時のフィオラノのコースレコードを破り、一躍関係者の注目を集めました。(Bortolotti breaks Fiorano lap record. | News | Crash

当時はまだフェラーリにジュニアプログラムはなく、09年レッドブル・ジュニアにスカウトされ、新設されたFIA (MSV) F2に参戦。前述のウィケンス、アレシンに次ぐランキング4位とルーキーとしては上々の成績を収めます。シーズンオフにはSTRのテストにも参加し、一時は翌年アルグエルスアリに代わってF1デビューするという噂まで流れるほどでした。

しかし全く理由は不明ながら10年1月、突然レッドブル・ジュニアを解雇されます。本人にとっても全く寝耳に水の出来事でした。一方でその2ヶ月後には当時設立されたばかりのフェラーリ・ドライバー・アカデミー (FDA) に加入。まさかレッドブルとの間で譲渡交渉があったとは思い難いですが、タイミング的には不思議な符合ではあります。

当時のFDAメンバーはボルトロッティのほか、契約第1号だった故ジュール・ビアンキ、ダニエル・ザンピエリ、ラファエル・マルチェロ(現メルセデス・ファクトリードライバー)の4人で、この年の後半にはセルジオ・ペレスやまだカートを走っていたランス・ストロールも加わることになります。レッドブルとフェラーリいずれのジュニアプログラムにも所属経験があるのは、現状では彼と後述するCallum Ilottのみですね。

FDAのサポートを得て10年は新設のGP3に参戦しますが、優勝ゼロ、表彰台も僅か1回でランキング11位と低迷。結果、FDAもまた1年で後にすることになります。素行不良が原因という噂も一部でありましたが、真相は不明です。

大きな後ろ盾を立て続けに失った11年は、比較的参戦コストの安いFIA-F2に復帰。すると皮肉にも2位以下に100点以上の大差をつける圧倒的強さでチャンピオンを獲得し、今度はウィリアムズでF1テストの機会を得ます。しかし大口スポンサーを持たないボルトロッティにはF1はおろか、GP2に参戦する資金もなく、その後は一時的にFormula Acceleration 1 (FA1) という”意味不明な”シリーズへの参戦はあったものの、事実上この年限りでフォーミュラを離れることになりました。

12年からはGTにスイッチし、翌年にはWorld Series by Renault内のイベント、Eurocup Mégane Trophyで全14戦中13PP、8勝を挙げる圧倒的強さでチャンピオンを獲得。その活躍によって今度はランボルギーニのヤングドライバープログラムに抜擢されます。実にレッドブル、フェラーリに次ぐ3つめの育成プログラム加入でした。日本では2社でもあり得ませんが、欧州でも3社の育成プログラムを渡り歩くのは大変珍しいことです。

14年は欧州のランボルギーニ・スーパートロフェオに参戦し、ワールドファイナルを制すると、15年からは念願のファクトリードライバーに昇格。ブランパンGTではHuracan GT3の開発を務めながら、昨年は耐久&総合のダブルチャンピオンに輝きました。今年のデイトナ24HでもGTDクラスを制覇し、今や押しも押されもせぬランボルギーニのエースドライバーですね。もし噂にあるようにランボルギーニがWEC GTEへとプログラムを拡大することになれば、真っ先に名前が挙がることでしょう。

 

 

その(3)へ続きます。