スチュワート&レッドブルの起源は”イクザワF1″だった

F1に新たなチームが参入することは特段珍しいことではない。かのジャッキー・スチュワート卿が設立したスチュワートGPなどはその代表例だろう。しかし彼らにはある秘密があったのをご存知だろうか?

スチュワートGPの起源は、実は1994年に日本人ドライバー生沢徹が始めたF1プロジェクトにまで遡るのである。計画では98年までにF1に参入する予定だった。しかしやがてそのプロジェクトはスチュワートGPとなり、現在ではレッドブル・レーシングとして世界的に知られている…………。

 

 

1970年代に日本のF2やF3で活躍した生沢徹は、その後ビジネスで成功していた。彼は94年の初頭、96年〜98年のF1参戦を視野に”イクザワ・プロジェクト”を起ち上げる。

生沢はまず、かつてウィリアムズのチームマネージャーを務めたピーター・ウィンザーに声をかけた。二人はF1マシンを製作するためのデザイナー、エンジニアリング・ディレクターを探し、たどり着いたのがウィリアムズ、フェラーリ、ロータスなどでデザイナーの経験を持つエンリケ・スカラブローニだった。スカラブローニは独創的で常識に囚われないタイプのデザイナーであり、93年には革新的な未来のF1マシンのアイデアを作成していた。

彼らを中心とした”イクザワF1チーム”は、94年から95年にかけてイングランドのHawtal Whiting CompanyにてHW001シャシーの設計を開始。何百時間もの風洞実験を行い、結果的にはフルスケールのモックアップで終わったものの、95年にはジョン・ワトソンが何度かフィッティングテストも行い、F1参戦に向けて着々と準備は進んでいるように見えた。

チームがドライバーとして検討していたのは、ケニー・ブラック、ジル・ド・フェランという、いずれも後にCART・インディカーで活躍する二人であった。ドライバーは将来有望なラインナップであり、クルマも風洞試験で良好な結果を弾き出すなど、パズルのあらゆるピースが集まりつつあった。そして生沢とウィンザーは、フォード&コスワースと広範囲に渡るエンジン供給について交渉していたのである。

 

しかしその頃、日本は経済不況に陥っており、生沢のビジネスもまたその影響を免れられなかった。その結果、チームは資金難に陥り、彼らが雇用した主要メンバーの多くは、その後ジャッキー&ポール親子によって設立されたスチュワートGPへと移ってしまう。

イクザワ・プロジェクトが頓挫したという情報が流れてまもなく、スチュワートGPがイクザワHW001の設計を買い取るという噂が流れた。スチュワート卿はこの噂を否定したが、チームには既にHW001の製作に関わった多くのスタッフが働いていたため、たとえ買い取ってはいなくとも似通った姿になるのは必然であった。その後、スチュワートは生沢より一歩を進め、フォードと97年からのエンジン独占供給契約を取り付けたのである。

 

ピーター・ウィンザーが当時を振り返る。

「(資金難以外に)我々の計画に打撃を与えた別の要因が、フォードとの契約がジャッキー・スチュワートへと渡ったことでした。もちろん彼はそれに値する人物ですが、我々は既に94年〜95年にはフォード&コスワースと広範囲に渡って交渉を進めていたのです」

 

Ikuzawa HW001

 

97年に登場したスチュワートSF01は信頼性に優れたクルマだった。もしイクザワ・プロジェクトが資金不足のために頓挫せず、ブラック&ド・フェランと共にHW001がグリッドに並んでいたら、果たしてどうなっていただろうか? 今となっては知る由もないが、大変興味深いストーリーである。そして最終的に現在のレッドブル・レーシングへとどのように結びついていただろうか?

 

Original Text:Ikuzawa; the team that became Stewart Grand Prix

UnracedF1さんのFacebookページに他にも画像あり。

 

*まだ世界的に経済が好調だった90年代前半には、いくつものF1プロジェクトが生まれました。その中にはパシフィックやシムテックなど(短期間とはいえ)実現したものもありますが、ブラボーF1やDAMSなど計画だけで終わったものが大半でしょう。生沢徹さんのF1プロジェクトは自分もうっすらと記憶があるのですが、それが後のスチュワートGP、現在のレッドブルの母体になったという事実は、日本人としては大変興味深い話ですね。ロータス・いすゞV12が実現していたらどうなっていたかなど、妄想も膨らみます(笑)